映画「模倣犯」日記


2002年 6月8日

全国東宝系 ロードショー

監督・脚本:森田芳光

原作:宮部みゆき

主演:中居正広




(7/13)

昨日で、ロードショーが終わり、今日から二番館で上映。
と言う事で、最後の前売り券を、昨日・一昨日・一昨昨日とで使ってきました。

人間の原罪。
このことを見るものに痛感させる「模倣犯」と言う映画。
アダムとイヴが食べてはならない「知」の実を食べた時からその罪の意識は始まった。
その息子たちであるカインとアベル。
カインがアベルを殺したのが人類最初の殺人だった訳ですが、兄弟ゆえにその愛と憎しみは深かったのでしょう。
人間の善悪は血ではなく環境だと信じ性善説を唱える有馬老人と、人間は生まれながらにしてどこかに悪の心を持っているのだと唱えるピース。
自ら今天国にいるというピースからの挑戦状のようなラストの赤ん坊の存在。
それは、あたかもパンドラの箱の最後に残った「希望」のよう。
有馬老人は、これからの人生を、ピースが意図的にめぐり合わせた真一少年とこの赤ん坊を育てていく事で過ごす事になるのでしょう。
その希望を残した神々の意志。
それが、慈悲とも悪意ともとれるところがなんともいえません。
大自然の象徴である神とは、時として人類を試す。
そして時としてその人類を滅ぼす事さえ厭わないのです。
神になりたかったピース。
彼は或いは悪魔と言う名の邪神に取り付かれたのかもしれません。
インドのシヴァ神は破壊と創造の主であり宇宙を司る神として崇められている神様ですが、その奥様は邪神カリ。
けれど、カリは又シヴァの別名であるとも言われます。
破壊なくしては創造は成り立たないと言う訳です。
悪魔には悪魔の理由があって存在している訳で、だから又簡単に善悪と言うものは決め付けられなくなる。
「お前たちに男は殺せない」と言った、正義の象徴であるかのような有馬老人の言葉が、そのまま滋子の夫殺しに結びついていった事もさることながら、ピースに戦争の話をされて「俺が行ったのはボルネオではなく満州だ」と答えた有馬老人。
満州なら良いのか?
そんな筈はない・・・・・
そんな人間よりも、ただ1匹の山女(ヤマメ)の方が美しいと言い切ったピース。
それらを殺していいなんて観念がある以上人の世の戦争はなくならない。
けれど、ならば神でもない人間が人を裁く事など出来るものだろうか。
感情があるから又人間で、この世への愚鈍な欲情だけを残したままでは神になどなれないわけです。
ピースが恐ろしいほど魅惑的なのは、ピースが無欲であり純粋な悪魔的存在に描かれているからかも知れません。
ここで、オウム真理教がらみの一連の事件もまた思い出します。
坂本弁護士失踪事件以来、マスコミの前に姿を現してきた彼らは、人を殺す事を「ポアする」と言った。
ポアすることで醜い人間は浄化できると、そう言うわけです。
テレビで見た教祖の麻原と名乗る男は見るからに愚鈍で、何でこのような男にみな騙されたのかと思うような男でしたが、頭脳優秀と言われる弟子たちの操り人形だった可能性もあったわけで、もしこの教祖がピースだったら?と思うとさらに恐ろしいほどです。
テレビのワイドショーに出演した彼らは、とにかく自己主張ばかりして相手の価値観を認めようとは決してしない人達でした。
自分と違う価値観を持つものは、彼らにとっては悪でしかなかったわけです。
彼らの論理は、相手は生きていることそれ自体が悪なのだから、殺していいという感じでした。
けれど、それも又人間の浅はかで愚鈍な意識と言えましょう。
自分たちの住んでいる小さな世界しか認められない私たち人間。
井の中の蛙であり、それも又人間の原罪なのでしょうか。
つまり、ピース的存在に憧れ模倣しようとするものはあっても、誰しもピースにはなれない現実世界の私たちであるかもしれません。

(6/19)

今日はレディスデーだったので、又観に行ってきました。
最後まで見て、やっぱり最後の赤ちゃんのシーンで思ったことは、ああピースはこう言う形で生まれ変わったのかも知れないなと言う事でした。
あ、この赤ちゃんはピースなんだ、と思ったのです。
今時の日本では、失われがちな父親の威厳を持った有馬老人。
この老人に対するピースの愛憎の思い。
そんなものを改めて感じました。

(6/13)

今日、又観に行ってきました。
ピースから見た、ピースに企画されたかのような、この映画の世界観。
まさに「模倣犯〜ピースの世界〜」と言う感じだと、改めて思いました。
ライブ殺人を、心のどこかで楽しんでしまっている現代人。
「平成」と言う時代。
古きよき邦画の世界観と、デジタルな現代と言う時代が入り混じる。
それを、私たちもまた、この劇場で疑似体験すると言う訳です。
そんな怖い事件を報道する傍ら、その同じテレビのCMとして、ノー天気でセクシャルなものがはさまれると言う事。
これもまさに現代の風俗世相を切り取ったもののように感じられました。
Yahoo掲示板の書き込みとして、合間合間に流れるテロップ。
Yahooは今回の映画のスポンサーでもあり、その掲示板はたいそうメジャーなのでよく見ますが、実際のYahooの書き込みはもっと長文で粘着質のものが多いように思います。
2ちゃんねると言う、良いもの悪いもの何でもありの掲示板があります。
そこは、バスジャック犯もそこに潜んで声明を出したりしていた事でちょっと有名で、管理人さん自らテレビ出演されたり、本まで出ているのですが、そこのチャット風の軽いノリの書き込みの方に似ているかも。
そこの専門板にはなかなか興味深い意見があるので、ROMさせて貰っているのですが、「〜だYO!」なんて語尾のお遊びは、今回の映画内の掲示板でも使われていたけど、ここの用語じゃありませんか(笑)。
なんだかこの映画の世界が、ますます現代の私たちの世界を風刺し、切り取った世相である気にさせられました。
さて、カラーセラピーと言う事で、今回の途上人物にはそれぞれパーソナルカラーが用意されているとのことで、ピースが赤と黒、ヒロミが青、カズが黄色と聞いていました。
けれど、別の断面からこの映画を自分なりに見たとき、又別の色も浮かび上がってくる所が、余白があって面白いです。
ヒロミ――エキセントリックなアニマル――赤。
ピース――クリスタルな透明感――或いは海のように静かな、けれど激しさも秘めた青。
私自身は、やはりこう言う印象を受けました。
この映画「模倣犯」と言う世界。
私自身は、このピースはがへなちょこでは成り立たないと思いました。
ピースと言う絶対悪を中心に、この長編小説を映画として再構成したことは、映画としてとてもいい効果を持ったのではないかと思いました。
ピースから「現代」への挑戦状。
そんな時代の片隅で必死に生きる人間たち。
失われ行く「昭和」。
その昭和の世界は、ある意味伝統の日本映画の世界でしょうか。
かなり観客の年代層が広く、前回もそして今回も、一人で来ておられる有馬老人くらいの年齢のお爺さんとか、何人かお見かけしました。
そう言う方たちは、こちらの昭和の視点からこの映画を見ていられるのだろうな、と思いました。
愚かしい殺人・・・アケミ殺し。
感情でヒロミはアケミを殺した。
その人間臭さ。
馬鹿な女に俺の人生を台無しにされたくないって。
そして叫ぶ。
「ピー―――ス!!助けてくれ!!」
そこにピース登場。
そしてそこでこの映画世界は新たな局面に立ち、一気にムードが変わるのです。
「意識」「観念」と言う言葉をピースは口にする。
進化――自然淘汰――神(悪魔)の手による意識的殺人。
これからは神がそうしてきたように、人は理性で人を殺す?
選民思想。
悪魔からの挑戦状。
「食べると言う事」
こんな映像にも、彼らの欲望の質が表現されます。
欲望――けれどピースは無臭。
ワインを飲み、肉を食べる仕草がひたすら美しく、生活臭を感じさせないピース。
ピースはおそらく凡庸で醜いものは許さない。
そしてアニマルのように喰らい付き喰いつくすヒロミ。
イチゴをほうばりコンデンスミルクを直接むさぼるカズ。
そのカズは、平凡で凡庸な普通の男だ。
けれど「ちっぽけな存在はその存在のまま」生きていたっていいじゃない?
そこにはそれなりの小さな幸せもあったりするのだから。
そして有馬老人。
戦争を生き抜いてきた動物的な勘に優れた男。
目も良ければ耳もいい。
この老人がピースと直接対峙する訳ですが、私はピースにとっては、この「戦争ジジイ」の存在は、強大だったと思います。
こんなじいさんがまだ生きていたことに対して、喜びと憎しみが入り混じっていたのではないでしょうか。
そして女を感情で殺したヒロミ・・・
彼はその時、その泥沼から這い上がる為に、「ピース」と言う悪魔的意識に憑かれたのでしょう。
事件を、被害者&マスコミ側からとピース側からとの、2方向から辿るこの手法によって、2回目3回目を見た時の感慨が違いました。
最初、訳も判らず固唾を飲んで見守っていた事件の経過。
けれど2度目は、その経過を見ながら、その裏側を実は知っていると言う体験をする訳です。
そして、ピースと言う人物を解くキーワードにもなる山女(やまめ)釣り。
「どんな芸術よりも人よりも美しいたった一匹の山女。それらを殺していいなんて考えがあるうちは戦争も殺し合いもなくならない」
この言葉が耳に残りました。
ところで、ヒロミのセーターのバックのマークは、あれもピースマークだといいます。
そんなヒロミが、カズによって一瞬意識を揺るがせた時――そこに待っていたものは死。
「どうして僕のレベルに来てくれないんだ・・・」とピース。
そして、そこからピースの行動は新しい展開を見せる。
「犯人は他にいて、生きています」と名乗り出た後のピースのベッドの上での苦しげな表情は何?
咳き込み、血のついたタオルをベッドの上に置いていた事の意味は?
ピースは、体が悪かったことも考えられる。
あまり、生きることに対する情熱を、このピースには感じないのです。
ピース自身、自分の肉体に対する死の用意を、常に考えていたのでしょうか。
ピースの終末――PCの終末。爆発を思わせます。
ピースはやはり人間ではなかった?
ピースは面白がっていたのとも違う・・・なんだろう・・・と、実は有馬老人の言葉にもモヤモヤしていました。
有馬老人の言葉を聞いて、最後に「ありがとう。スッキリしましたか」と答えたピースのその言葉にスッキリ。
現代に巣食うピースと言う悪魔。
その答えを、「使命感」と答えるピース。
突き進むだけ、と言うのがその印象です。
最後のその瞬間、本物の悪魔と化したピース。
最後のピースサインは、実はヴィクトリーサイン?
いったん目を閉じ、それからかっと目を見開き静かに微笑む。
美しく怖かったです。
ピースの肉体が滅びようとも、ピース的意識は、実は普遍的に生きていることを、ニュースでは、あいもかわらず日々ピースのような事件が終わった今も報道されていると言う所にも感じるのでした。
「ピースの子」を抱く有馬を、空から見下ろすの映像で終わるのですが、これは天国のピースの視点?
ピースの「意識」は今も生き続けているのだと思いました。
ピースとは、やはり絶対悪の象徴だったのでしょう。
「ピースのジレンマ」
透明で純粋な意識悪。
そのピースと、人間ピースのはざまで彼は苦しんだでしょうか。
とすれば、生きることはむしろ人間ピースにとって、苦しみであったかもしれません。
そして、ピースが消滅した後振ってきたさいごの「時計」はなんだったのでしょう。
これは、滋子に夫を返したということでもあるのかも、と思いました。
原作者の宮部みゆきさんの位置は、案外この映画の中の滋子にあるのでしょうか?
犯罪に関して傍観者としてルポしてきた滋子。
けれど書くことで、何かが変わるかもと、被害者の声を切々と訴えるということハどういうことなのか、最後に噛みしめていたこの滋子。
「終わらせないと何も始まらない」
と言った、この事件の大1発見者、塚田真一。
生きたい、何かしたい。
その事が、最後のパンドラの箱に残った希望でしょうか。

どちらかと言えば、アナログである事を意識的に貫いてきた「中居正広」がピースを演じる事の面白さ。
ドラマや映画の中居正広を見ているとき、私はそこで「これは中居くんなのか、それともこれはピースなのか」と言う風に分けて見ないし比べる事は殆どありません。
その中でも、この対比は面白いと思いました。
私自身は、実際の中居くんが肉ではなく魚を食べようが、ワインでなく焼酎(サワーだけど)を飲もうが、そういった日常レベルの事を比べるのは、あまり意味がないと思っています。
その繊細さや儚さ、強さ、そして解釈と言ったもの。
そう言う中居くんの芯の部分と言うか生地が、とても良く出ていたピースだと思いました。
バラエティでもドラマでも、こうした素材そのものになりきれる中居正広。
今後がますます楽しみです。

(6/11)

「ナゼ人ヲ殺シテハイケナイノ?」
これは、今回のこの映画のサブタイトルとも言える言葉なのですが、当たり前の事のようで、実は昔から様々な形で問われてきた言葉と言えましょう。
人間は生きるために動植物を殺生する。
人間は戦争と言う名前でその破壊行為を正当化する。
ドフトエスキーの「罪と罰」と言う作品の中のテーマも、このことでした。
又、よく言われるのは、三島由紀夫と言う作家は人を殺したかった。
けれど人を殺すと罪になるので彼は作品を書くことでその欲求を満たし、昇華させた。
そして最後には自分自身を殺した、と。
あの有名な割腹自殺は、メディアを巻き込んでの騒動でしたが、当時子供だった私もとてもよく覚えています。
人間の中の特に女と言う生き物は、概して産み育て守る性なので、この殺生すると言う行為には生理的にも嫌悪感を示すけれど、料理すると言う行為はいったん何かを殺生し、そこから新たに新しい価値を見出して作り上げると言う事。
選民思想と言う考え方がありますが、進化の中でも動植物は自然淘汰される。
その中に巣食っている人間本来の感情なのでしょうか。
神と悪魔が裏表の存在であるように、このテーマは複雑なようです。
だからと言って、人には人を殺す権利などない。
人にはそれぞれ生きる権利もあると言う訳です。
ならば、古来からあった闘牛など、人が牛を屠殺するのを楽しむ事はどうなのか?
複雑な問題を孕んでいるようです。

(6/10)

今日の時点での感想です。
後ほど、もう一度この映画を見てから別ページを改めて作り、、感想をまとめようと思っています。
最後の、テレビ局での有馬老人とピースの対決のシーン。
有馬老人ならこう言うだろう、と言うことは、最初から判っていた様な気もするピース。
だから「だったらあんたがこの俺の血を引いた子を育ててみろ。血じゃなくて環境だと証明して見ろ」と言う事で、最後の赤ん坊に繋がったのではないかとも思いました。
実の所、本当にピースの子かどうか判らない。
そう言う存在のあの赤ん坊。
けれどそこに、
「ピース」と言う観念は生き続ける訳です。
有馬老人はこの赤ん坊を、もしかしたら自分のひ孫かも知れないのにそれを知らずにピースの子として育て続ける事になる訳です。
それは、有馬老人のような親に対するピースの中の一種の憧れと、同時に、一種の挑戦だったでしょうか。
私は、テレビ局での有馬老人の言葉を聞きながら、その言葉は確かに正論だけれど、それはピースが抱えてる問題点とは微妙に違うだろう、と妙に違和感を覚えて観ていました。
有馬老人が発する言葉は、母殺しがその最初の殺人であったピースには、判りすぎるほど判っていたと思うのです。
ピースは、相手が傍観者である事を許さない。
お涙頂戴モノのルポを書いた記者の前畑滋子の夫には死を。
あまりにも堂々と「昭和」である自分を守りつづけ、生き続ける有馬老人には「ピースの子」と言う観念を与えた赤ん坊を。
もし、有馬老人が自分自身に敗れたとしたらその時、彼はその子供を憎む日が来るかもしれません。
子供が、何か間違った事をした時、「やっぱりあの男の子供だから」と思うこともあるかもしれないし、子供自身が自分がピースの子であることを悩むかも知れないのです。
ある意味、恐ろしい挑戦だと思いました。
私たちも全員、ピースに試されているのかも知れません。

それにしても、この映画、観客の年代層が本当に広くて、驚きました。
この有馬老人くらいの年齢の男性の方も、独りで観に来ておられました。
今日は、週刊誌での原作者宮部みゆきさんと森田監督の対談も読みました。
女の感情、と言うか、映画の中での滋子みたいに大切な夫を奪われる、と言う事が生理的に受け容れられないと言うか、観念で人を殺すと言う事を嫌悪しつつこの作品を小説として仕上げたと言う宮部さん。
彼女の中では、それをどんなに薄っぺらいと非難されようが、被害者側からの視点でしか敢えて作品を書かなかったという訳です。
それを、その作品を大好きな森田監督に敢えて託した宮部さん。
映画では、ピースと言う存在にも強烈な印象が与えられました。
原作派の中には、それでは被害者の悲しみが薄れてしまうと仰っている方もあるし、おすぎさんとか、男だけれど女の感情を持った人なので、映画のその辺が受け容れられなかったのかも、とも思いました。
でも、反対側のその敵の視点の方も突っ込んでおかなければ、物語は一方的になってしまう、と私自身は受け止める性質なので、私自身は、この映画を見て、「ピース」と言う存在に魅力があればあるほど、この現代社会の中で今でも彼がほくそえんでいる怖さを感じたし、又被害者側の悲しみも十分に感じました。
滋子の夫である畳屋職人があまりにもいいひとすぎて、その彼が疑うことなくピースの毒牙に掛かって殺されていく事の悲しみ。
孫娘を殺された有馬老人の悲しみ。
たとえどんなにピースがカッコ良く見えても、彼がした事はこの悲しみを人に与える事に他ならず、いえ、カッコ良くカリスマに見えてしまうからピースは恐ろしい現代の悪魔なのだ、と言う事を感じました。
宮部さんは、最初ピースが自爆と言う道を選ぶ事を「ピースに勝ち逃げされてしまうのでは」と危惧されたようですが、そうしないと小説と言う言語と違った「映画」と言う言語にならないと言うこと以外にも、簡単に改心してしまうようでは(或いはそう言う余地を残すようでは)ピースの本当の恐ろしさは見えてこないのでは、と言う気が、私にはしました。
宮部さんはこの対談の最後で、「映画と小説の2つの模倣犯に触れることで初めて現実がみえてくるんじゃないか」と仰っていました。
宮部さん自身、新たな発見があったのかも知れません。
ちなみに、中居くんのピースは、自分の作り上げたピースと違って、あまりにカッコ良く美しい森田ピースになっていた事に驚かれたそうです。
映画には、やはりこう言うダークヒーローは必要なのでしょう。
誤解されがちですが、ダークヒーローと言う事は、決してその存在を倫理的に肯定するものでもないですから。
人間誰しも持っている「心の闇」と言う事。
その闇をクロースアップする為にも、私はピースには悪魔として輝き続けていて欲しいと思いました。
本当に、パズル解きのように色々考えさせられるこの映画。
一回観ただけでは表面的な感想に終始してしまう。
後から思い出して色々考える。
その細部を確認する為にもう一度この映画を見る。
その事の意味が判った気がしました。
ネットなどでも、役者の演技に関しては殆ど賛辞が贈られているのに反して賛否両論を呼んでいる脚本ですが、それだけに「問題作」と言う称号が与えられましょう。
そして、これまた賛否両論を呼んでいる、ピースの自爆シーンでのCG合成。
うちの息子も、後は全部良かったのにあのCG合成だけは現実味がなくて、ありゃあないだろうと言っていました。
けれど、私自身はあれで逆にピースは自分自身を神(実際は神と言う名の悪魔?)にしたのであり、もしかしたら死んでいないかもしれないではないかと、あれはピースと言う悪魔が見せた幻覚だったのではないかと、思いました。
爆破の中で、静かに微笑む美しいピース。
造形的に美しいフォルムの顔立ちなだけに、それは美しく恐ろしい光景でした。
あの恐ろしさは、中居くんのあの顔立ちの美しさでこそ表現できたものでありましょう。
コメディタッチの中居くんは、もしかしたらバラエティの中で本人が作り上げた以上のイメージを超えられないかも知れないと思います。
けれど、彼が本来隠し持っていた表情は、こうした映画でこそ活きるのかもと思いました。

(6/8)

今日、初公開のこの映画を見てきました。
本当に色々考えさせられた映画でした。
答えなどそこにはない・・・或いは幾つもの解釈が可能であるかもしれない映画だと思いました。
ピースは、ある意味現代社会のひずみが生んでしまった一種の悪魔でしょうか。
悪魔とは、美しく当りもソフトで、カリスマ性もあるからこそ人を惹きつけ、自分自身の持っている暗闇の中に周りを引きずり込んでしまうものなのでしょうか。
中居正広の持つ透明感や繊細さと言った表情、そしてクールビューティな美しさが、そのピース像に輝きを与えていたように思います。
ピースは、静かに微笑しながら人を殺す。
ピースの目は、どこか遠い彼方を見ている。
殺人ゲームを企画する事を楽しみながら、その反面その事に対して無関心であるかのようなピースの深い虚無感。
ピースは或いは自分の死に場所を探していたのでしょうか。
そしてピースと有馬老人。
この両極端な存在の対決にはとても凄みがありました。
ピースは、もしかしたらこの有馬老人と言う存在に、憎しみと憧れの気持ちの両方を抱いていたかもしれないですね。
その最後のとき、自分の犯罪を糾弾されて、「スッキリしましたか」と微笑むピース。
自分の死を前に、ピースの心ははじめて平和(ピース)であったかもしれないですね。
一緒に行った主人も、この映画を見て、ピースの最後の計画は、網川浩一を殺し、そして新しい命として再生させる事だったかも知れないね、と言っていました。