砂の器(第10話)

「宿命・最終楽章前編」




和賀英良――いえ本浦秀夫の亀嵩のあの地での激しい慟哭。
父と別れたその場所に佇む彼の心に突き上げた思い。
その激しい嗚咽が、胸に痛く切なく伝わってきました。
絶対に和賀はそこに行くに違いないと、追いかけてきた今西刑事。
「本浦秀夫さんですね」と静かに問うこの刑事に、はいと静かに答え認める和賀。
今こそ「宿命」は完成したのだ、と思いました。
そして、全てを受け容れて、その完成コンサートを前に自分の部屋を後にする和賀。
和賀英良としての暮しに、別れを告げたのでしょう。
そして、全てを受け容れて曲を弾き始める和賀――――――――――――――
故郷、大畑村で、謂れなき差別をされつづけてきたという本浦家。
本浦家には差別されるような一体何があったというのでしょう。
それは例えばB差別といったテレビでは具体的に説明しかねる事だったのか。
そんな風に想像することも出来るけれど、そんな理由なんて関係なく世の虐めと同じに村共同体にたまたま馴染まなかったばかりにこの村八分という行為が行われたかも知れない。
人間の心の中に棲む鬼。
「村八分なんて今時まだあったのか・・・」と呟く刑事の1人。
実際、最近まで村八分に関する人権裁判はあったと言います。
それは人権にすら関わる。
村八分なんてそんな軽い事・・・と思う人間の心の中にももしかしてこの鬼は棲んでいないか。
何気ないそう言う行為こそ、決して未来永劫なくならないものなのかもしれません。
村から出ればすむことではないかという考え方もあるでしょう。
けれど住み慣れた地を離れることは、なかなか出来ない事です。
まして家族があるとすれば。
「犯罪者の子は結局犯罪者か」と結果だけを見て判断する心。
それだけではない、世の中にはいまだいろんな事に対する差別があります。
島国根性と言われるある種の性格は、21世紀になってさえなくなる事はありません。
子供の世界においても、それはさらに陰湿になり社会問題とさえなっています。
不登校の子も、昔に比べてもなんと多いことか。
確かに、いかにそれによって妻が死にも追いやられたとはいえ、又差別により鬱積していたとしても、あそこまでひどい村全体の放火や殺傷をしていいとは言えないけれど。
又和賀の殺人の肯定にはならない(これは親がハンセン病だったという設定であっても)けれど。
鬼が鬼を産んだ。
この言葉に尽きる。
まして、幼い子供であった秀夫には何の罪もないのです。
秀夫にとっては、そして父にとっても2人での北陸の海岸沿いの放浪の旅路は逆説的に生涯唯一の平和なひと時だったかも知れません。
そこは、2人だけのパラダイスのようなものだった。
親子2人の映像と音楽。
おそらく去年1年をかけて撮ったと思われる日本の美しい四季の風景を織り交ぜながらのその映像は本当に美しかったです。
そしてたどり着いた奥出雲の地。
そこで出会った三木謙一という菩薩のような1人の巡査。
父はその巡査に出会うことで自首の決意をして救われたかもしれないけれど、息子の秀夫の救いにはなり得なかった。
秀夫の宿命は、彼が一人になったその時から始まったのです。
予告での、世の中の全てを恨んだかのような秀夫の目付き。
亀嵩でももしや子秀夫に対する虐めがあったのか?
あの腕の傷は亀嵩でついたのでしょうか?
人に決して蔑まれたり差別される側の人間になるものかと決意したであろう秀夫。
他人に成り済ましてまでもその宿命を変えようとし、その美貌と才能だけで他人をひれ伏せさせ羨まれる位置にまで登りつめた秀夫。
けれど、過去の自分に怯える秀夫の心にはやはり救いはなかった。
それがゆえに優しかった三木の殺人にと彼を走らせてしまったのか。
「宿命・最終楽章後編」がどのように描かれるのか、期待してます。