「模倣犯」
7/13
昨日で、ロードショーが終わり、今日から二番館で上映。
と言う事で、最後の前売り券を、昨日・一昨日・一昨昨日とで使ってきました。

人間の原罪。
このことを見るものに痛感させる「模倣犯」と言う映画。
アダムとイヴが食べてはならない「知」の実を食べた時からその罪の意識は始まった。
その息子たちであるカインとアベル。
カインがアベルを殺したのが人類最初の殺人だった訳ですが、兄弟ゆえにその愛と憎しみは深かったのでしょう。
人間の善悪は血ではなく環境だと信じ性善説を唱える有馬老人と、人間は生まれながらにしてどこかに悪の心を持っているのだと唱えるピース。
自ら今天国にいるというピースからの挑戦状のようなラストの赤ん坊の存在。
それは、あたかもパンドラの箱の最後に残った「希望」のよう。
有馬老人は、これからの人生を、ピースが意図的にめぐり合わせた真一少年とこの赤ん坊を育てていく事で過ごす事になるのでしょう。
その希望を残した神々の意志。
それが、慈悲とも悪意ともとれるところがなんともいえません。
大自然の象徴である神とは、時として人類を試す。
そして時としてその人類を滅ぼす事さえ厭わないのです。
神になりたかったピース。
彼は或いは悪魔と言う名の邪神に取り付かれたのかもしれません。
インドのシヴァ神は破壊と創造の主であり宇宙を司る神として崇められている神様ですが、その奥様は邪神カリ。
けれど、カリは又シヴァの別名であるとも言われます。
破壊なくしては創造は成り立たないと言う訳です。
悪魔には悪魔の理由があって存在している訳で、だから又簡単に善悪と言うものは決め付けられなくなる。
「お前たちに男は殺せない」と言った、正義の象徴であるかのような有馬老人の言葉が、そのまま滋子の夫殺しに結びついていった事もさることながら、ピースに戦争の話をされて「俺が行ったのはボルネオではなく満州だ」と答えた有馬老人。
満州なら良いのか?
そんな筈はない・・・・・
そんな人間よりも、ただ1匹の山女(ヤマメ)の方が美しいと言い切ったピース。
それらを殺していいなんて観念がある以上人の世の戦争はなくならない。
けれど、ならば神でもない人間が人を裁く事など出来るものだろうか。
感情があるから又人間で、この世への愚鈍な欲情だけを残したままでは神になどなれないわけです。
ピースが恐ろしいほど魅惑的なのは、ピースが無欲であり純粋な悪魔的存在に描かれているからかも知れません。
ここで、オウム真理教がらみの一連の事件もまた思い出します。
坂本弁護士失踪事件以来、マスコミの前に姿を現してきた彼らは、人を殺す事を「ポアする」と言った。
ポアすることで醜い人間は浄化できると、そう言うわけです。
テレビで見た教祖の麻原と名乗る男は見るからに愚鈍で、何でこのような男にみな騙されたのかと思うような男でしたが、頭脳優秀と言われる弟子たちの操り人形だった可能性もあったわけで、もしこの教祖がピースだったら?と思うとさらに恐ろしいほどです。
テレビのワイドショーに出演した彼らは、とにかく自己主張ばかりして相手の価値観を認めようとは決してしない人達でした。
自分と違う価値観を持つものは、彼らにとっては悪でしかなかったわけです。
彼らの論理は、相手は生きていることそれ自体が悪なのだから、殺していいという感じでした。
けれど、それも又人間の浅はかで愚鈍な意識と言えましょう。
自分たちの住んでいる小さな世界しか認められない私たち人間。
井の中の蛙であり、それも又人間の原罪なのでしょうか。
つまり、ピース的存在に憧れ模倣しようとするものはあっても、誰しもピースにはなれない現実世界の私たちであるかもしれません。
★戻る★