「中居正広の 家族会議を開こう5」感想
(2001年3月22日放送)





中居正広プレゼンツと言うことで、うたばんスタッフにお願いして始まったと言うこの企画も、もう5回目。
とても感慨深いです。
今回は「中居くん法廷」と言う事で、恐喝・自殺・多重人格・不治の病にストーカーと言ったさまざまな話題で討論。
判決と言う形は取っているけれど、どれも答えが出ない問題なだけに、考えさせられる事も多かったです。
ビジュアルも、今季のドラマの直江先生仕様の中居くん。
感情を抑え、一つ一つの言葉を選んで、命の重さについて一生懸命に考え語りかける中居くんが良かったです。
「学校を破壊する女子中学生」
確かに、俺は教師だから俺の方が偉いと高飛車だったくせに(だからなのか?)、女生徒に肌を見せられて簡単に手を出す先生のほうにも落ち度はあるとは思うけれど(もっとも本当に抱いたシーンだったのかどうかは藪の中)、一生を棒に振ってしまったわけですね。
「また頑張ればいいじゃん」と彼女らは簡単に言うけれど、大人・・・特に教師ともなれば、道は険しい。
自業自得とは言いながら、彼女らのやり方は、無自覚なだけに余計罪な気がしました。
何より怖いのは、この「無自覚」と言う事だと思いました。
そして彼女らは学校生活に対して本当の意味での「楽しさ」をいまだ発見していないということなのでしょうか。
「痴漢詐欺でこづかいを稼ぐ女子中学生二人組」
「痴漢」に関しては、やってないにも関わらず、疑われただけでというか「私はやっていない」と言ったとたんに逮捕されてしまう今の状況が何だか・・・
精神的な問題だから、難しいのだとは思いますが。
でも結局警察も、自分の身の保身と言う状況なのでしょうか。
自分が得をするから、どんな悪い事をしても構わない的な発想をしている子って、意外と沢山いたりするのでしょうか。
この発想がなくならない限り、痴漢詐欺だけではなくどんな詐欺も無くならない気がしました。
これもまた「無自覚」の怖さでしょうか。
実際に痴漢冤罪の被害にあわれた男性も登場。
この場合の女性は、本当に痴漢されたと勘違いしたのかもしれないですが、VTRを見る限りでは、思わずこのくらいの事で訴えられるなんて(満員電車の中だし)男性って大変だと思ってしまいました。
私なら、一時の気の迷いと言う事もあると、黙認してしまいそうです。
甘いのかな?
でも、実際ここまでひどいことになるなんて。
けれど、この方の家族が優しいですね。
お嬢さんもお父さんを信じて、一生懸命自分なりに考えてくれている。
今回のこの詐欺の女性たちに対して「自分の娘がこんなじゃなくて良かった」とおっしゃったのは、本当にこの方にとっては家族だけが支えだったのですね。
だけど実際、警察にこう言う場合のフレキシブルな対応をして欲しいものだと思いました。
「自らの命を粗末にする少年」
自分の命を燃やし尽くさずに、生きていると言う意味も見出せないままに、自殺と言う手段を選んでしまいがちな危うい世代。
勿論、前回のイジメを苦にして自殺と言う手段を選んでしまった少年に対して、自分自身もそう言う子供だったと言う事を重ね合わせてではあるのだけれど、「自殺する人間は弱い」と言い切ってしまった雅さんに非難が集まったように、簡単に白黒を言える問題ではないとも思いますが。
そこから発覚した多重人格の少年少女。
一種の精神分裂症に値するものだと思うのですが、本当に人間の精神構造って複雑で、それが生きていると言う事の激しさ複雑さなのでしょうか。
誰しもが生きたいと思っている。
だからこそ苦しむもがく、その激しさをこの彼女に見た気がしました。
トラウマが彼女らを死の恐怖に陥れたのですね。
精神科の先生のお仕事も、本当に大変ですね。
一つ一つの言葉でケアをする。
もっともその言葉を一つ間違えれば奈落のそこに突き落とす事にもなる。
奥の深い仕事であり、同時に言葉の持つ重さを感じました。
多重人格症状(もう1人の私が私を殺そうとする)があると言う事で今回スタッフさんも打診されて話を聞こうと思われたのでしょうが、これを機会に本格的なメンタルケアがなされる事になってよかったと思いました。
周りはもう、そっとしてあげて普通に接して黙って全部を受け容れてあげる事以外に答えは無さそうな気がしました。
彼女が、全ての現実を受け容れる日を待って。
そしてまだまだ頑張れば生きられるのに、命を燃やし尽くしていないのに、やはりそう言う思いに囚われてしまう少年。
こう言う思いに囚われたら、それこそそのまんま東さんの言葉じゃないけど、真っ白になっちゃって他の事は何にも見えなくなってしまうのでしょうか。
そんな彼に対して、中居くんの口から出た「死の形を整える」と言う言葉。
思わずこの冬にやったドラマの中で色々中居くんも考えたのだろうなあと思いました。
残されるものの悲しみとか。
あの直江先生は生きたかった。
死ぬ事に対しても人並み以上に畏れていた。
簡単に死を選ぼうとした少年にも、思わず我を忘れるほど怒った。
けれど自分が医者であるばかりの悲劇というか、誰が何と言おうと自分が絶対に助からない命であることを否でも思い知らされていて、その為自分自身が燃えつきてしまったその時に、故郷の母なる湖に自らをかえす道を取った。
なので、あれは自殺ではなく、まるでかぐや姫が月に帰ったかのように、自らの場所に帰っていっただけなのだという印象を受けました。
もし彼が200%治る見込みの無い治療を受けてベッドに縛り付けられ、あと1ヶ月の命を3ヶ月に伸ばしたとして、残された身には必ず「本当にこれでよかったのか」と言う後悔は残ると思うのです。
それが、彼の望む生き方ではなかったのならなおさらです。
直江先生は自分の「生きた証」を残された愛する人達の胸の中に残して逝った。
死に方=生き方、そして生きることと死ぬ事は、紙一重である意味同じ部分がありそうな気がしました。
筋ジストロフィーの少年の「死ぬなら死ぬで自分の生きた証を残された人間に残してやってください」と言う言葉も身に染みました。
その不治の病、筋ジストロフィーの少年、小山直努くん。
「これが僕にとっての当たり前の生き方であり日常なのだから、頑張ってるかわいそうとか決して思わないで下さい」と言い切った彼の誇り高い声に、本当に感動しました。
小さい時から前向きに「死」と向かい合い見詰め合ってきた事で、生きるとは何かという彼の人生観が育ち彼を年齢以上に老成させてきたのでしょうか。
とすれば、お母さんのその育て方に敬服です。
「今自分に何ができるか」「自分にとって楽しい事役に立つ事をできる限りやっておきたい」「だけど毎日ヒヤヒヤする」
「有難うと何回人に言ったろう」
「何かを残していく事が生きることなのでは」
死ぬと言う事はそれが後か先かと言う事だけ。
つまりいつどんな形で死のうとも、精一杯生きていたら、それが生きたと言う事なのかも知れないなと思わされました。
ただただ自殺をやみくもに否定して、それが「悪い事だ」「周りを悲しませる事だ」と言うのではなく、又そう言うことでもなく、自分を燃焼させることが出来ずに思い悩み、道に迷っている孤独な魂に一言でも語りかけて上げられたら、どんなにか素晴らしい事でしょう。
そのまんま東さんに「不幸はいつまでも続かない」と大竹さんが言ったというその一言が、東さんの光となったように。
「HELP!ストーカーに監禁された少女」
警視庁の生活安全科ですか。
真っ先にそう言うところに行くのがいいのですね。
そう言う知識が一般人には普及していないと思うので、こう言う場合の対策がもっと完璧になればと願います。
今回の場合は相手が派手な行動を起こしたので表沙汰になった訳だけれど、ギリギリのところで行われていきなり殺されたりなんかしたら、もう取り返しがつかない。
「逃げる」ことの大切さをしみじみ感じました。




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