「中居正広の 家族会議を開こう6」感想その1
(2001年9月19日放送)
もう6回目になるこの番組。
今日は茶パツにスーツの中居くん。
すっかり貫禄が出てきたなと思いました。
今日はテーマも3つに絞って、何だかあっという間に時間が過ぎた感じ。
答えは複数にありすぎて、又個別に違うものだから永遠に出ないだろうけれど、こうして「提案」をすることで、それをテレビのこちら側の家族が見て、いろいろ話し合う。
そこにこそ本当のテーマがあったりするのでしょうか。
「虐待される子供たち」
実子殺し・継子いじめの2例。
子供をまるでモノとして見ていると言うか、自己所有物とみなして何をしてもいいと思っているのか、子殺しのテーマは昔からグリム童話などでも描かれてきているけれど、根が深いですね。
逃げ場の無い子供たち。
ストレスを持った親たち。
親子と言うのは、ある意味癒着しすぎていたりして、そうして「同族嫌悪」みたいな自分の中の嫌な部分を子供の中に見たりして、そこから葛藤も生まれるのでしょうか。
このVTRの親の虐待は、本当に悲惨なもので、こう言うことがあると言う事自体がもう許せないくらい悲しい事でした。
けれど、日常の何でもない中にも、親子の葛藤と言うものはあるでしょうね。
今回、新鮮だったのは、虐待する側の母親―それも若い母親たちが出てきた事でした。
我が家にも中学生になる男の子がいますが、今は思春期なので時には語気を強くして叱る事もあるけれど、小さいうちは子供が泣いたりするのは親に原因があると思っていたので、注意する事はあっても怒った事は無かった。
リズムに乗せて巻き込めば、結構言う事を聞いてくれるし、押し問答をしたって小さいうちはキリがない。
でも、押し問答をして親の方がカッカきちゃうことってあると思う。
あの若いお母さんたちもそうなのでしょうね。
そう言う時って怒った後で「言い過ぎたな」と反省したりするものだと思うのですが、彼女らは平気。
でも、意外とあの若い母親たちの子供たちはどんなに親が怒鳴っても慣れっこになってしまって聞き流してしまっているのかもしれないですね。
で、ますます口で言っただけでは子供に言う事を聞いてもらえなくなる。
で、結局暴力的行為に及んでしまう。
こうなると結果的にそれは親の側の敗北だと思う。
でも、彼女らにはもう日常の事だから、ああやって笑い話としてケラケラ喋れるのかも。
でも、叩かれた子供の方は痛い・・・・・この場合、この子供たちが幼稚園なり学校に行った時に、お友達に暴力をふるうようになったらと、私はそっちの方が心配でした。
だって結局親子なのです。
親子はどこかで絶対瓜二つなのです。
報復合戦がいかに悲惨なものか。
世界の戦争を見ていてもそう言うことは感じるわけですが、世界を見る前にまずこんな小さな赤ん坊と報復合戦やってちゃ、どうしようも無いんじゃないかと思ったりするわけです。
うちは子供が身体も元気で健康だったので不機嫌になる事もなく、小さな子と向かい合う生活は本当に満たされて毎日が幸せでした。
よく寝て食べる子だったと言う事も幸いしたとは思うのですが、私自身は結構自分の母親とは未だに心理的な葛藤があります。
私が生まれた時は、母も大家族の中で一番下の「長男の嫁」だったので、男の子である弟が生まれるまではかなりのストレスがあった訳です。
あのVTRにあったような子供たちと決定的に違うのは、どんなに親に怒鳴られても叩かれても、逃げ場となる年の近い叔父叔母が私にとっては身近にあったので、そこが良かったのですが、今はこの核家族と言うのが「閉じられた関係」となって暴走してしまうのかもしれないですね。
母と娘と言うのはある意味近すぎる部分と、同時に正反対な部分があったりすると、理屈ではなくやはり大好きと言う感情と大嫌いと言う感情が同時に起きたりする。
私の場合は産んだ子供が男の子だったから、そう言うジレンマには陥らなかったのかも?
けれどお母さんとのテーマは、結婚して子供も産んで、やっと支配される部分が少なくなったとは言いながら、やっぱり未だに何だかややこしい。
「恥をかくことで自分も成長する」。
中居くんの好きな言葉ですね。
問題点から目を逸らさない事。
私も、問題から目を逸らしたくはないです。
自分がやりすぎたと思えば、この若い母親たちもそこから目を逸らさず、どうしたら子供が言う事を聞いてくれるかな?と考えるようになるでしょうか。
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